らんままの気まぐれ独り言

LUNASEA、長澤知之が大好きな女の独り言です。時々太宰治が登場。

「恋の蛍 山崎富栄と太宰治」を読んで

著者 松本 侑子さんの「恋の蛍 山崎富栄と太宰治」を読みました。
太宰治をよく知る上でとても有益な書籍です。

 

太宰治の愛人で、共に入水自殺をした女性。山崎富栄。
彼女の人生を書いた本であるが、創作も含まれているので、
完全なるノンフィクションではありません。


ただ富栄は太宰と出会ってから死ぬまで日記を残しているので、
それに基づく創作と、当時のことを知る人達への取材により構成されている。
取材に関しては、日本中、フィリピンまでも訪れていた著者の熱意に感服します。

 

読み終わった直後の感想としては「疲れた」だった。
特に後半は死の前後も詳しく書かれているので、陰鬱な気持ちを引きずる。
そして溜息しか出ない。

 

二人は出会わなければ良かった。
そう思わずにはいられない。

 

富栄は、お金も人生も全てをかけて太宰のために尽くした。
それは私には、愛というか執着に感じた。

 

"死ぬ気で恋愛してみないか?" という口説き文句を言われ、
富栄は一気にのめり込むことになる。

 

「自分だけが彼の真の理解者だ」
「彼を支えることが出来るのは自分しかいない」
「自分がいないと彼はダメになってしまう」

 

ダメな男を好きになる典型的な思考。
でも富栄にとっては命をかけて愛し、真実の愛だと信じていただろう。


だが太宰にとってはどうだったのか?

 

最初は軽い気持ちだったと思う。
自分好みの綺麗な女性が、キラキラした憧れの目で見つめ、先生と呼ぶ。

 

初めは太宰からグイグイ迫るが、次第に富栄の独占欲は強くなってくる。
ちょっと太宰も重くなってくるんだが、いやいや自業自得でございますよ。


晩年、結核で体調を崩し度々喀血していた太宰は、富栄の部屋に入り浸る。
献身的に介護をしてくれて、執筆の助手や来客の対応など、
謂わば秘書のような役割だった富栄に精神的にも身体的にも寄りかかれる
存在だったんだと思う。

 

盲目に、一途に自分を愛する女。
甲斐甲斐しく自分の世話をする女。
文句も言わず、口答えもせず、何でも言う通りになる女。
そんな女性に太宰が依存していくのは当然だろう。


結核が進行し、喀血して痩せていく太宰だったが、
その中で命を削りながら「人間失格」を執筆出来たのは、
傍で富栄が支えていたからで、この点についてだけは富栄に感謝したい。
この点についてだけは。


当時売れっ子作家だった太宰は、今で言うアンチに叩かれまくっていた。
人気があるということは、その分アンチも多いだろう。
それに私生活については、叩けばいくらでも埃が出る。

 

作家界隈でもよく思わない人達が多く、次第に太宰は文壇でも孤立していく。
また自分の命もそう長くないと実感していた。

 

何もかもに疲れ、逝こうと決める。
富栄は「一緒に連れて行ってください」と願い入れる。


これは愛なのか?
美談なのか?


男は、妻以外の女性とキッパリ分かれることができず、

だらしなくズルズルと関係を持ち、病魔に命を奪われる恐怖もあり、

自分の全てに嫌気がさしている。

 

そんなどうしようもない男の才能に惚れ込み、身も心も捧げ破滅していった女。


どんなにドラマチックに創作しても、私は二人を美しいと思えなかった。

 

二人が死を選んだ本当の理由は二人にしかわからないので、
何のかのと詮索したって答えは出ないんですが、虚しさだけが残る。


妻である、津島美知子さんの著書「回想の太宰治」では、
太宰の女性関係について一切触れられていなかったが、
この「恋の蛍」では、当時の美知子さんの様子も書かれていた。


太宰の亡骸が川から引き揚げられた時も冷静に受け止めていた。

 

でも、太宰と富栄を同じ葬儀場で火葬しようという意見があったが許さなかった。
墓も同じ寺に埋葬するなど言語道断。
"太宰の体は骨にしてから家に上げてください" と言ったこと、印象に残った。

 

遺体が発見された時、太宰と富栄の体は紐で固く結び合い、
腕をお互いの体に絡ませしっかりと抱き合っていた。
そんな夫の体を家に上げるなど嫌だったのだろう。
「回想の太宰治」では汲み取れなかった妻のプライドと嫉妬が見えた。

 

富栄の日記や太宰の遺書などから無理心中ではないことがわかるが、
当時「人気作家が愛人に殺され無理心中させられた」という解釈が

世の中に広まってゆく。


人気作家と愛人。
どちらが世の中的に弱い立場か一目瞭然だった。

太宰の遺体はすぐに霊柩車が手配され引き取られていったが、
富栄の遺体は半日川辺にむしろをかけられて放置されていたことからもわかる。

 

富栄の父親が、娘の亡骸を引き取りに上京するが、

津島家からの冷遇と世間からの非難の声に生涯晒されて、肩身の狭い人生を送る。

こちらの親からしたら娘の命を奪われたと悔しいだろうに…。

 

二人は、死んだ後に残された家族がどんな人生になってしまうのか
想像もしていなかったんだろうな。
二人はそれで良かったかもしれないが甚だ迷惑だし、気の毒だ。


富栄に同情する気持ちもある。
心の底から愛する人に出会い、一緒に死ぬことで本当の意味で

添い遂げることになると本気で信じていたと思う。


ある意味純粋で、真っすぐな人だったんだろう。
純粋さ故に太宰一色に染まってしまったのだ。


結論として、私は富栄に同情はするが理解は出来ない。
二人の弱き人間が、破滅へ向かう道のりを見届けた後、疲労感が残る。

 

創作も加わっているので、富栄の心情やセリフなどが
脚色されている箇所もあるので、少々興覚めしてしまう所もあった。

 

太宰を知る上で避けては通れない書籍だけに、情報収集という意味では読んでよかったけど、虚しく陰鬱な気持ちになり、何度も読みたいと思えませんでした。

 

書籍としては素晴らしいですよ。
決して内容をけなしているわけではありません。
取材量を鑑みても、ものすごいエネルギーがいったと思います。


太宰についてはどうだろう。
「こんなクズ野郎の本なんか読みたくもない!」という声も聞きます。
ですね、クズです。

 

太宰治の作品は、好きか嫌いか。0か100か。のようにハッキリと分かれると思う。
私は何で好きなのかなと考えるに、やはり才能だと思います。
小説においての才能は素晴らしい。人としてはクズなのでそこはフォロー出来ません。


今回、この「恋の蛍」を読んで、太宰の最期を知ることが出来た。
また違った気持ちで彼の作品を読んでみようと思う。

 

 

「回想の太宰治」を読んで 

著:津島 美知子

太宰治の奥様です。


本の内容紹介の一部抜粋
太宰治は、文字通り文学のために生まれ、文学のために育ち、文学のために生きた「文学の寵児」だった。
彼から文学を取り除くと、そこには嬰児のようなおとなが途方に暮れて立ちつくす姿があった。


今回は、単純にこの本を読んだ感想を書こうと思っているので、
太宰治の細かいエピソードや、山崎富栄と太田静子についてはまた別で書こうと考えています。

 

お見合い結婚をし、美知子さんが伴侶となってからの太宰は、
心と体の平穏を取り戻し、意欲的に創作に励みます。
この頃の作品は、明るくユーモアに溢れた作品が多い印象。
ただその平穏も長くは続かないのですが…。


この本を読んだ感想。


まずは、美知子さんの文才に驚きました。
元々教師をされたいたので、それまでも様々なエピソードを聞いて、
賢い方だなと思ってはいました。

 

文章から聡明さや芯の強さが伝わってくる。

 

太宰はいつまでもお坊ちゃんで、自主的に動かず人任せなことが多い。
デパートで自分の服を買っても、婦人服売り場は足早に過ぎ去り、奥さんの物を買ってあげたりしない。
自分の酒代、煙草代には湯水のように金を使うが、妻が家財道具などを買ってくることは嫌った。

 

常に主観的に物事を捉え、また大袈裟にする。
それを例えた一文が「針で刺されたのを鉄棒で殴られたと騒ぐ人だった」とある。

 

美知子さんが他の小説家や画家などの芸術家を褒めたり作品を飾ると、
あからさまに不機嫌になり拗ね、作品を人にあげてしまったりする。


いつでも自分が一番愛されていたい。
常に愛に飢え、愛を求めていた人だったんだろう。
太宰の性格については幼少期の環境が大いに影響あると考えるが、

ここでは割愛します。

 

戦前、戦中、戦後という時代背景もあるが、酷い夫で妻は苦労しただろう。
でも美知子さんは冷静に、客観的に、観察するように、淡々と太宰治を語ります。

 

小説家としての「太宰治」を尊敬はしているけれど、
一人の人間「津島修治」に対しては呆れてたと思う。

 

呆れながらも、妻として凛とした態度で添い遂げようという意思、
太宰の妻としての誇りを持ってらっしゃたように感じた。
きっと憎みきれない良いところもあったんだろう。

 

また私が、この「回想の太宰治」という本の中でとても印象強く残ったのは、
太宰と共に情死した、山崎富栄という女性に対して一切触れていないということでした。

 

山崎富栄のやの字も出てこない。


太宰の死についても、「死んだ」という事実のみを記し、
いつ、誰と、何処で、どういう風になどの説明は無い。

 

それは同じく太宰と関係を持ち、斜陽のモデルとなった

太田静子に対しても同じだった。


静子は太宰の子を産み、妻として耐え難い苦痛を受けていたはずなのに。

 

哀しみ、怒り、憎しみ、嫉妬、言葉では表現出来ないであろう様々な感情が

あっただろうに、美知子さんは妻としてのプライドを強く持ち、

太宰の女性関係については生涯沈黙を貫かれました。

 

私が本を読んで一番印象に残ったのは「本に書かれていないこと」だった。


太宰に対する不平不満、怒りの感情などを感じ取ることはなく、
冷静に太宰にまつわる話を語っている。
私だったら恨み辛みをぶちまけてしまうだろう…。

 

小説を読むだけでは見えてこなかった、太宰のことを知れて良かった。
客観的に語られているところがわかりやすい。

 

今度は津島美知子さんについて詳しく知りたいと思い、堂々巡りになりそうです。

 

太宰治の津軽を巡る

旅を振り返って。

二泊三日の短い旅でした。
全然足りないです。物足りない。

斜陽館はもう一度行きたいな…。

 

私は何を求めて津軽へ向かったんだろう。と考えてみた。
単に「太宰治という作家が好き」というシンプルな理由かもしれない。
いや、それだけではない気がする。
自分でも気が付かないうちに、ゆっくり、ゆっくりと催眠をかけられるように
太宰の沼にずぶりとハマって抜け出せなくなっているのだ。

 

作品が好きなのは勿論なのだが、人間性についても大変興味深い。
この人間から生まれる作品だから好きになるのかもしれない。
私が好きなのは、やはり太宰の書く文章が好みだからだ。
だからその文章を生み出すバックボーンに興味がある。

 

これは長澤くんにしても同じだ。
長澤知之という人から生まれるもの、だからこそ美しいと感じる。
その美しさは何処から来るのか?と知りたくなる。

 

さて、話は戻って。
その太宰の人間性を構築したのが、津島家に生まれたということだ。

きっと一般家庭に生まれていたら、違った人生を送っていたかもしれない。


作家にはなっていただろうか。
38歳という若さで死なずに済んだだろうか。

 

そんなことを、この私が悩んだところで答えなど出るはずもなく、
また、出すべきではない。何も知りやしないくせに。と太宰から怒られそうだ。

 

ものすごく大昔な感覚でいたけれど、昭和23年まで生きていたのだから、
そこまで大昔ではない。
2020年で、生きていたら111歳。てことは90歳とかまで長生きしてくれていたら、
私も生きている太宰に会えたかもしれないと思うと、ますます身近に感じてしまう。

 

映像や肉声は残されていないので、写真でしかお目にかかることが出来ない。
昭和の後期や平成に入るぐらいとかまででも生きてくれていたら、、、
きっと映像や肉声は残せただろう。惜しい。

 

同じ1909年(明治42年)生まれの松本清張さんは、1992年(平成4年)までご存命でした。
インタビュー映像も残っています。
どうでしょう?同じ年に生まれているのに太宰の方がもっともっと昔の作家のイメージですよね。
いかに短命だったかがわかります。

 

ただ短命であったにも関わらず、約280作品を残しています。すごくないですか?
私もまだまだ読んでいない作品も多いし、知らないことも多い。
もっともっと読みたいし知りたい。

 

私が読んだ中で、印象に残っている文章、言葉を紹介します。


-葉
「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。
これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」


-桜桃
「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。」


-女生徒
「ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。
花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。」


津軽
「私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。」


道化の華
「ここを過ぎて悲しみのまち。」
 友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑へ。
ああ、友はむなしく顏をそむける。友よ、僕に問へ。僕はなんでも知らせよう。


人間失格
「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」

 

「そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。」

 

「それは世間が、ゆるさない。世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?
そんな事をすると、世間からひどい目にあうぞ。世間じゃない。あなたでしょう?
いまに世間から葬られる。世間じゃない。葬るのはあなたでしょう?」

 

「いまは自分には、幸福も不幸もありません。 ただ、一さいは過ぎて行きます。
 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、
 真理らしく思われたのは、それだけでした。ただ、一さいは過ぎて行きます。」


-美男子と煙草
「これからどんどん生長しても、少年たちよ、容貌には必ず無関心に、煙草を吸わず、お酒もおまつり以外には飲まず、そうして、内気でちょっとおしゃれな娘さんに気永に惚れなさい。」


-新ハムレット
「てれくさくて言えないというのは、つまりは自分を大事にしているからだ。」


ヴィヨンの妻
「人間365日、何の心配もない日が、一日、いや半日あったら、それは幸せな人間です。」


御伽草子 浦島さん
「疑いながら、ためしに右へ曲るのも、信じて断乎として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。どっちにしたって引き返すことは出来ないんだ。」


-善蔵を思う
「芸術は、命令することができぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅する。」


-思案の敗北
「愛は、この世に存在する。きっと、ある。見つからぬのは愛の表現である。その作法である。」

 

 

長々と書いてしまった。
想いを吐き出す場所がここにしかないもので。

まだ読んでいない作品をボチボチと読んでいこうと思います。
ほんの少しでも太宰治に興味を持っていただければ幸いです。

 

【太宰治思ひ出の蔵】太宰治の津軽を巡る

さて最後に訪れたのは

太宰治思ひ出の蔵

入館料200円です。

 

斜陽館、疎開の家があるのは津軽鉄道金木駅

そこから五所川原駅を目指します。

 

切符を買おうとしたけど券売機が無い。

窓口で五所川原までと告げ、切符を駅員さんから買いました。

津軽鉄道では、有人駅が数える程度しかありません。

 

ちょうど「風鈴列車運転中」の時期だったようで、車内の天井に風鈴がずらっと吊るされてました。電車が揺れる度にリンリンと涼やかな音がしてた。

 

五所川原駅に到着。電車を降りる時に運転手さんに切符を渡すというシステムが新鮮!

いいね、こういうのいいよね。

 

五所川原駅から歩いて5分もかからないところに蔵はあります。

 

こんにちはーと声をかけて入館。

 

太宰は実母が病弱だったため、叔母のキエが面倒をみていたので、

しばらくキエのことを母だと思っていたそうです。

叔母とのこと、五所川原での太宰人間関係などが知れて良かったです。

 

この時も例に漏れず、見学者は私一人でした。

受付のお姉さんと二人っきり。

お姉さんが「太宰がお好きなんですか?」と声をかけてくださった。

 

そこからもう私の情熱が溢れ出し、止まらない。

お姉さんも私の暑苦しい情熱を受入れてくれました!(笑)

 

作品の中で津軽が一番好きだと伝えると、とっても驚かれて「何処が良いか教えてもらえませんか⁇」と食い気味に聞かれた。

 

何とお姉さんは太宰治検定で、津軽編の問題を作っているメンバーなんだって!

思わず握手してください!って言ったわよ。食い気味で。

 

だけどお姉さんは、津軽はあんまり面白いと思わないらしく、あくまでも教科書として読んでいただけだそう。津軽の魅力、面白いところを教えて下さい!と逆にお願いされるというシュールな展開に。

 

確かに小説「津軽」は単なる旅行記のような印象を持つかもしれないし、地元の人からしたら、そんなことないわよ大袈裟ねーみたいに思うところもあるのかもしれない。

 

私は小説というよりエッセイのようなものとして捉えて読んでました。

太宰が津軽人としての自分を取り戻す旅、アイデンティティを求める旅、愛し憎む故郷との対峙、それらを一緒に共有させてもらってる感覚がありました。

 

なるほどー!興味深いです。とお姉さんは深く頷きながら言っていました。

それからそれと話題は取り止めもなく、しまいには太宰とは関係ない世間話で盛り上がり、

「は!お帰りの時間大丈夫ですか!?」とお姉さんが我に返りました。

私も「えっと電車ってちょっと本数少ないんでしたっけ?」と間抜けな顔で質問。

 

「ちょっとどころではないです。少ないです!」とお姉さんは急いで時間を調べてくれました。

五所川原発、弘前行きは10分後。

走れば間に合うー!

これを逃せば次は2時間後だ!やっベー!

 

「長々とすみませんでした!つい楽しくて」とお姉さんは謝ってくれましたが、

「いえいえ!私の方こそ楽し過ぎて時間を忘れてしまいました。旅の良い思い出になりました。ありがとうございます!」とお礼を言って駅まで走っていきました。

 

間に合ったー!良かったー!

電車でゆっくり弘前まで帰ります。

 

旅の締めくくりに相応しい、楽しい時間だった。だって太宰治について自分より詳しい人と交流出来るなんて今まで無かったから。

知らないこと沢山教えてもらって、また太宰への印象も変わった。

 

少し前の時代、お姉さんのお爺さん世代とかだと、太宰治と聞くと津軽の恥だと思っている人が多かったそうです。

 

生誕100年の時、地元がそれを盛り上げようと力を入れて、少しずつそういう意見もなくなってきたと。

今の小学生は、学校で「青森にはこんなすごい作家がいたんだよ」って教えてもらうそうで、若い子たちは太宰治については良い印象を持ってるみたいです。

 

今年は生誕111年。コロナのせいでいろんなイベントが中止になりました。

 

青森の人は、太宰治を誇ってほしい。

いまだに全国からファンがやってくるんだもの。海外からもファンが来るそうですよ。

 

お勧めだから行ってきて!と簡単に言えない距離にありますが、青森は、津軽はとっても良い場所でした。少しの滞在でしたが、それでも青森が好きになった。

津軽弁話せるようになりたい。

お姉さんの「んだ」が可愛かった。

 

自分の心が豊かになり、とても大きな収穫があった旅になりました。

 

勇気を出して良かった!

太宰治、津島修治という人間に少し近づけた気がする。

 

 

【太宰治疎開の家】太宰治の津軽を巡る

 

斜陽館を後にして向かったのは、

太宰治疎開の家

入館料500円です。

 

戦時中、東京空襲から逃れるため妻の実家である甲府疎開してたんですが、そこで空襲に遭い、行く当てもなかったので太宰の実家である金木へ向かいました。

その頃には兄との関係も少しずつ緩和されていたようです。

 

兄は太宰に離れを使うことを許しました。

当時は斜陽館と離れは繋がっていたのですが、今は離れが曳き家されて斜陽館より90mほど離れて建っています。

 

離れと言っても斜陽館の離れですからね。

そりゃ立派です。

ここで太宰は23もの作品を執筆します。

大好きなトカトントンや親友交歓もここで書かれた。

 

ここでも管理されてる方が丁寧に説明してくださいました。

太宰と美知子夫人は、互いに敬語を使いお話しされていて仲睦まじい夫婦だったそうです。

 

ここは斜陽館から近いにも関わらず、訪れる人が少ないとお店の方が仰ってました。

「あらかじめここを調べて来られたんですか?」と聞かれたので「はい!ぜひ来たいと思っていました」と答えると「さすがです!」とお褒めの言葉をいただきました(笑)

 

あれは読みました?これはどうですか?

それにはこんなエピソードがあってねと沢山知らないことを教えてもらえて感激でした!

 

斜陽館ばかりでなく、ここ疎開の家もとても素晴らしいです。

綺麗に管理されており、太宰の面影を感じます。

この頃執筆していた作品は、とても精神的にも落ち着いていてユーモア溢れる作品が多いです。

 

斜陽館にお越しの際は、ぜひこの疎開の家も見学に行って下さい!

と、宣伝しますとお店の方と約束しましたので(笑)

 

古い建物を綺麗なまま保存するって、とっても大変だと思います。

どうかこれからも後世に残してほしい。

まなびの家にしても、斜陽館にしても、疎開の家にしても。

 

【斜陽館】太宰治の津軽を巡る

ついにここへ来れました。

斜陽館

入館料は600円。(斜陽館のみ)

 

太宰治(本名:津島修治)が生まれて育った家です。

 

津島家は地元でもかなりの権力と財を持っていたので、この家も相当な大豪邸!

明治の時代にこの家はそりゃ「金木の殿様」と呼ばれて当然だろう。

 

ここに生まれた事が、太宰治の生き方において大きな影響をもたらしたと思う。

 

部屋の中は自由に写真撮影できましたが、蔵の中にある資料などは撮影禁止。

その蔵の中がどえらいことになってた。私にとっては。

 

太宰が実際に使っていた灰皿や財布などや、着ていた着物。そして直筆の原稿。

それを目にした時、私の足は震えて動けなくなった。ガラスケースの前で立ち尽くしていた。

 

今まではどこか歴史上の人物的な、遠い昔の人という印象を持っていた。

だけど、実在したんだ。生きていたんだ。この着物を着て、鉛筆を持ち、この原稿を書いていたのだ。全ての産毛から髪の毛までピリピリとか弱い刺激が全身を駆け巡った。

 

確かに生きていた。当たり前だけど、この事実を実感する事が出来てここに来れて本当に良かった。

 

直筆の原稿は「走ラヌ名馬」という作品のもの。文字が生き生きしていて、力強く、文字が命を宿したままそこにあった。

 

見学者はまばらで少なかったけど、ガラスケースに張り付く私をよそに、スーっと人が何人か通り過ぎていった。

何で皆釘付けにならないのか不思議だった。

ここまで思い入れを持って来る人は少ないのだろうか?

 

その蔵の中に私は30分以上はいた。

気が付いたらまばらな見学者もいなくなってた。名残惜しくてなかなか出られない。

 

家や部屋のことについては、沢山の人が説明してくれているのでもういいでしょう。

ここには私の主観のみ書きます。

 

この家で少年時代を過ごし、東京へ出るんだけど、芸妓を請け出したり、数回の自殺未遂などで実家から除籍され、長い間この家には帰る事が出来なかった。

実母を看取るため、十年振りに顔を出す事が許されこの家を訪れた。

 

どんな気持ちで帰ってきたんだろう。

故郷をどう想っていたんだろう。

故郷に送る言葉として、

「汝を愛し 汝を憎む」という言葉を残したけど、もっともっと心理を知りたい。

 

小説「津軽」の中で、兄たちや姪夫婦などと一緒の酒席に混じることになるけど、兄達は「さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、そちらさんこそどうぞ」などと上品にお互いゆずりあってる様を見て、

「外ヶ浜で荒っぽく飲んできた私には、まるで竜宮か何か別天地のようで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した」とある。

 

また「兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらい打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかっていない」と書いてある。

 

津島家という立派な家柄の中で自分の存在を客観視して溜息をついたかもしれない。

そんな想像をしながら家の中を見学した。

 

斜陽館に来れて良かった。

後ろ髪を引かれる思いでここを出た。

 

太宰治と津島修治の両方が混在した場所だった。

 

【小説「津軽」の像記念館】太宰治の津軽を巡る

続いては小説「津軽」のクライマックス、子守であったタケに会いに小泊へ太宰は行きます。

今回の目的地

小説「津軽」の像記念館

 

タケさんのことや、小説「津軽」について詳しく展示されています。

次はここへ行くぞ!

 

弘前のホテルに泊まっていたので、ここから小泊を目指すとなるとなかなかの道のりです。

 

まず電車とバスの本数が少ない!

これは仕方のないことなので、レンタカーを借りない場合はこれに従って行動しましょう。

 

弘前駅を出たのは朝5時半頃。

45分で五所川原駅に到着しました。

さて、小泊行きのバスは7:20発。

ここでまず約1時間の待ち時間発生です。

 

開いてないけど、とりあえず「太宰治思ひ出の蔵」を見に行きました。

五所川原駅から歩いて5分もあれば着きます。

 

蔵の横に、太宰と叔母キエの写真の大きな看板があります。

すぐ側にトカトントンスクエアと名付けられたお店が集まった場所があるのですが、別に小説トカトントンに関する物は何一つありません。

トカトントン好きだから何か残念。

思ひ出の蔵は、また帰りに寄る予定なので、外観の写真を撮ってすぐ五所川原駅へ戻りました。

 

バスの待合室で小説「津軽」を読みながら時間を潰す。やっとバスが来た。

バスに乗ったのは私と、おじさん一人とおばさん一人。お二人共、途中で下車されていきました。

小泊まで約2時間です。

運転手さんと私の二人っきりの旅が続きます。

 

小泊までもう少しのところのバス停で、お爺さんが一人乗ってきました。

私を見るや、何でこんな所に女一人でバス乗ってるんだ??と言いたげな不思議そうな顔で私をしげしげと見てくるではありませんか。

そりゃそうですよね。私もそう思います。

 

そのお爺さんも、小泊の手前で降りていきました。またもや運転手さんと二人っきり。

 

そしてようやく目的地のバス停、小学校前で降ります。

 

そこから歩いて23分で着きました。

小説「津軽」の像記念館

 

太宰とタケの銅像の背中が目に入りました。

「いたー!」とつい声に出してしまい駆け寄って写真撮影。いよいよ館内に入ります。

 

9時オープンで9時過ぎたぐらいだったかな、もちろん私一人です。他に誰もいません。

入館料200円。

ここは小説「津軽」について詳しく紹介されています。生前のタケさんのインタビューとか聞けます。

 

実は楽しみにしていたのが、太宰の骨格から復元した合成音声があると情報を知っていたので、それを聞きたかったんです。

太宰の肉声は残っていません。

興味があります。

復元された合成音声で、津軽の一部分を朗読してくれます。

 

声高い」私の第一印象

イメージと違う」第二印象

「合成感半端ないな」第三印象

 

もっと渋目の声だと思っていたので、ちょっとコレジャナイ感がありましたが、まぁ骨格から復元というのは難しいでしょうし、これが本人のものと近いかどうかも確認しようがありません。これはこれで良しとします。

こんな顔で聞いてましたが(˙-˙)

 

帰りのバスの時間までたっぷりあるし、ゆっくりじっくり見学しました。

1時間半ぐらいいたと思います。その間誰も来ません。貸切です。1時間過ぎるとさすがに寂しく、不安になってきました。

 

確かに場所が良くない。レンタカーかバスでしか来れません。何かのついでに寄る場所でもありませんし、ここを目的として来る人しかいないと思います。

 

でも見学して良かったですよ!

太宰治好きならお勧めします。

 

帰りのバスの時間。

本数が少ないので、行きのバスの運転手さんがそのまま帰りのバスも運転されてました。

そしてまた二人っきりのバス旅です。

 

そしてそして!行きしなに降りてったお爺さんがまたそのバス停から乗ってきた!

そしてそしてそして!またも私をお化けでも見るかのような目つきでガン見してくるではありませんか!

そりゃ不思議ですよね、明らかに地元ではない女が一人、観光地でもない場所でバスに揺られているんですもの。

お爺さん、ここに太宰治が来たのですよ。

こんな観光客にまたお会いになるでしょうから、その時はお化けを見るような驚いた顔はしないであげてね。

 

それぐらい何も無い所にあります。

 

帰りは斜陽館前のバス停で下車。

降りる時に運転手さんが「旅行で来たの?」と声をかけてくれた。

「はい!一人旅で。太宰治が好きなんです」と答えたら「そうなの!気をつけてね」とニッコリ笑ってくださった。

あの運転手さんの優しい笑顔が忘れられない。

 

次はいよいよ斜陽館です!