らんままの気まぐれ独り言

LUNASEA、長澤知之が大好きな女の独り言です。時々太宰治が登場。

太宰治 きりぎりす

太宰治の短編です。

展覧会やお金などに無関心で、描くことが純粋に好きだった画家。その生き方に共感する妻。
しかし次第に絵が評価され、瞬く間に人気画家へ登り詰めた夫は、富と名声を手に入れ変貌していく。
名声を得ることで破局を迎えた画家夫婦の内面を、妻の告白を通して印象深く書かれています。


妻は父の会社に飾られた絵を見て運命を感じ、その画家の仲介者から紹介され画家と見合いをします。
全くの無名画家。彼女の両親は勿論反対しますが、それを押し切り結婚します。


妻は貧しいながらも、純粋に絵と向き合う夫を支え、また美しいと思っていました。
たまに絵が売れて、二人で笑い合いながら小さなちゃぶ台を囲み一緒に食事をする。
このささやかな幸せで良かったのです。

「清貧」という言葉が何度か出てきます。
「行いが清らかで私欲がなく、そのために暮らしが貧しいこと」という意味。

まさに妻は清貧でいることを望んでいました。余るほどの富などはいらないと。
また、そうなれば何かを失うという恐怖、いつか悪いことが起きるという不安があったんだと思います。


次第に夫の絵が評価され、個展を開いたり二科展などで多大な評価を得、絵も高額で売れるようになりました。
夫は先生と呼ばれ、もてはやされ、お山の大将の如くふんぞり返るのです。

小さなアパートも、みすぼらしいからと大きな一軒家に引越すことになり、
今まで容姿を気にしたことなど無かった夫は、身なりが成金の如くいやらしくなっていく。

描くことを純粋に楽しんでいた絵は、値段交渉をして描くようになり、
より多くの金銭を儲けることに重点が置かれていった。

そして、人に対して興味の無かった夫は、人の悪口を言い、蔑み、自分がさも偉い人間なんだというように
虚勢や見栄を張るようになっていきます。

妻は戸惑います。あんなにも清らかだった人が何故?
あまりにも変貌した夫の姿に、「私をからかって居られるような気さえ致します」と妻は言い、
信じられない、信じたくないという気持ちになっていたんじゃないでしょうか。


男性というのは、やはり出世欲というのが本能であるのかもしれませんね。
一度でもスポットライトを浴びたら、常にその光を浴びていたくなるのでしょうか。


しかし妻の気持ちはどんどん離れてしまいます。
原文から少し拝借。

「ラジオ放送をなさいました。私が茶の間で夕刊を読んでいたら、不意にあなたのお名前が放送せられ、
つづいてあなたのお声が。私には、他人の声のような気が致しました。なんという不潔に濁った声でしょう。
いやな、お人だと思いました。はっきり、あなたという男を、遠くから批判出来ました。」


ここまで来ればもう破綻は目の前ですね。
妻は、かつて尊敬していた夫を、もはや軽蔑しています。


確かに生きていくためにはお金は不可欠。有るに越したことはない。
けれど、お金の事しか考えなくなるのは嫌ですね。

作中では、妻は夫の絵が売れるようになったことを心から喜んでいます。
生活が安定したことにも感謝をしています。

しかし失ったものが大きかった。
あの小さなちゃぶ台を囲み、笑い合った夫はもういない。
いるのは、金目の物で身を固め、いやしく笑う男。

夫は、生活も安定し、何でも買い与え、今まで苦労をかけたからと女中を雇おうとしたり
妻を大事にしているつもりなんだろうけど、両者の心があまりにも離れてしまっている。

きっと妻は、富や名声を手に入れた後も、夫が変わらず純粋に絵を描いていてくれてたら
これまでと同じように支えていけたのかもしれませんね。


妻の最後の言葉です。

「この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、
私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。」


このような理由ですれ違っていくのは寂しいですね。
もっと沢山コミュニケーションが取れていたらまた違っていたのだろうか。

この時代の夫婦の形って、今とは違うのかもしれないし、一概にどっちが悪いとは言えない。
読み終わった後に、少し切なくなるお話です。